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人物

2011年10月11日 (火)

スティーブ・ジョブズ氏~その2~

 
 
Apple製品は、既存技術の組合せでしかないという人もいる。
iPodの機能はウォークマンの機能とさして変わらない。
iPhoneの機能は、日本の携帯電話が持っている機能と似ている。
音声通信、メール、ネット接続、カメラ。
これは日本の携帯電話が最初から取り込んでいた。

スティーブ・ジョブズ氏は最初から最新技術を取り込むつもりはなかったのかもしれない。
最新技術には開発費がかかる。
そうなると製品価格が高くなる。

ハード技術は日本企業に叶わないと思ったのかもしれない。
部品をコンパクトにする技術は日本のお家芸だ。
Apple社独自に開発するより、日本企業の技術を取り込んだ方が、コストもかからず、消費者の要求する機能を組み込んだ製品ができる。
製造は中国の工場で作れば安くできる。

 

既存技術を使っていかに消費者が使いやすい製品を世に出すか。
消費者のライフ・スタイルをどのようによりよくするか。
それをスティーブ・ジョブズ氏が求めていたのかもしれない。

日本企業は最新技術を使って、今までにない製品を作ろうとする。
スティーブ・ジョブズ氏は、誰も考えたことのないコンセプトで、今までにない製品を作った。

2011年10月 9日 (日)

スティーブ・ジョブズ氏

 

僕が持っているApple製品といえば、iPod nanoしかない。
iPhoneやiPadは持っていないから、Apple製品の魅力が同じ機能を持つ日本製品とどこが違うのか、一概に言えない。
それでも分かることが、iPodの魅力は感性に訴えるところがある

iPodがなぜ携帯音楽プレイヤー市場を席捲できたか。
それはスティーブ・ジョブズ氏にわだかまりがなかったことも理由の一つだと思う。

ソニーは出井伸之社長時代、ソニー製品とインターネットを融合したビジネスモデルを目指していた。
ソニーはその配下に音楽会社ソニーミュージックを持っている。
それを使って、音楽をインターネットで配信すれば、ビジネスになる。
それがソニーの強みと思われていた。

ソニーがコンテンツを充実しようとする場合、他の音楽会社が持つコンテンツも取り込む必要がある。
そのためには他の音楽会社と交渉する必要がある。
音楽会社は、曲をソニーに簡単に提供できない。
ソニーはソニーミュージックを持っているから、ライバル社に自分の収益源である曲を提供することになる。
提供したとしても、ソニーに提供する曲の値段は、自分で売るより高くする。

映画も同じで、ソニーはその配下に映画会社ソニーピクチャを持つ。
ソニーが映画をインターネットで配信するにしても、音楽配信と同じ課題がある。

Appleは、そういうわだかまりがない。
音楽会社も映画会社も持っていない。
売り上げに直結すると納得すれば、音楽会社や映画会社はAppleにコンテンツを提供するだろう。

スティーブ・ジョブズ氏は、技術的センスだけでなく、ビジネス・センスを持っている。
今までの業界の常識にとらわれないビジネスを興した。
そのビジネス・センスは彼が大きな挫折を経験したから生まれたのだろう。
一度Appleから追い出されたとき、今までにないビジネスモデルを考えたのだろう。

スティーブ・ジョブズ氏は本人が曲を自由に聞きたいという希望があったから、iTunesを作ったのだろう。

スティーブ・ジョブズ氏のご冥福をお祈りします。

2011年8月27日 (土)

武蔵国榛沢郡血洗島村

 

武蔵国榛沢郡血洗島(ちあらいじま)村
(現埼玉県深谷市血洗島)

渋沢栄一が生まれた故郷を訪れてきた。
渋沢栄一記念館。
入場料無料。

彼の家は農家だが、藍玉の売買を商売にしていた。
藍玉とはどんなものか初めて知った。
繊維の塊にしか見えなかった。
これをぐつぐつ煮ると、染料ができるのだろう。

自筆の手紙を見たり、レコードに残った肉声を聞くこともできる。
彼の肉筆は旧書体の漢字で読めなかった。
彼の身長は156㎝くらいらしい。
写真を見ると、本当に好々爺している。

 

渋沢栄一記念館から1キロ弱歩くと、彼の生家「中の家」がある。
ここも入場料無料。
今まで持っていた江戸時代の農民の家のイメージとはまったく違っていた。
農民の家とは小さく、貧弱と思っていた。

渋沢栄一が生まれた家は、塀に囲まれている。
門を入ると前庭があり、池があった。
裏手にも裏庭がある。
土蔵が3つある。
隣には竹藪がある。

母屋は、部屋が大きい。
6畳や8畳の部屋なら聞いたことがあるか、10畳ある。
10畳の部屋が5つあった。
ふすまを全部取ると、どこかの旅館の大部屋みたいになるだろう。
こういう所で育ったのか。
ここで論語の勉強をしたり、剣術の稽古をしたり、父親が商売をしている姿を見ていたのだろう。

渋沢家は、半農半商の裕福な家だった。
小作農だったら、これほど大きい家には住めなかっただろう。

彼の生家のまわりは平坦な土地だ。
今では鉄筋でできた小学校や工場、倉庫が近くにある。
昔は見渡す限り田畑が広がっていただろう。
鎮守の森のような林もところどころ見かける。
彼はそんなところを走り回ったに違いない。

近くに川があり、洪水も多かったそうだ。
洪水が多いということは、土地は肥える。
ここらあたりは豊かな農村だっただろう。

国道17号線も近い。
旧中山道だ。
江戸と上州や信越地方との間を行き来する人々との交流があったはずだ。
田舎とはいえ、国内の様々な出来事の話題や思想と出会えただろう。

 

資料の量からいえば、東京都北区飛鳥山公園にある渋沢資料館が充実している。
それでも彼の生まれ故郷を訪れると、渋沢栄一がより身近に感じることができた。
もう一度彼の伝記を読むと、彼の成長を想像できるに違いない。
訪れてよかった。

2011年5月25日 (水)

渋沢栄一~論語編~

 
 
3週間前、つつじの花が満開でした。
最近、同じ木にまたつつじの花が咲き始めています。
つつじは二度咲きするのですね。
もうすぐアジサイの季節になります。
 

  
 
  
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渋沢栄一の活躍は、経済分野にとどまらない。
 
 
今の一橋大学になる商法講習所や日本女子大学など多くの教育機関の設立にもかかわった。
 
 
身寄りのない人や、児童向けの児童養護施設、慈恵会、日本赤十字社にかかわった。
福祉事業の先駆けとなった。
 
 
米国で排日運動が起きた時、米国に赴いて、関係修復もはかっている。
民間外交の先駆けとなった。
   

渋沢栄一をそこまで突き動かしたものは何なのか?
 
 
彼は、幕末に武士から理不尽な請求を求められた。
能力に関係なく、身分の違いだけで辱めを受ける社会の矛盾を感じた。
そこから、普通の農民や町民が人として扱われる世界を実現しようとした。
いまでいう人権主義を実現しようとした。
 
 
その場合、政治家になる方法もあるし、大学教授になる方法もある。
彼はそうせず、実業界に身を置いて、自ら実践してきた。
 
 
そこからさらに、教育界に活動を広げた。
それは学校の先生になることではなく、教育機関を作ることだった。
 
 
今の一橋大学設立に協力した理由も、江戸時代や明治時代、商人には教育は必要ないという因習を振り払うためだった。
日本女子大学の設立に協力したこのも、「男尊女卑」という偏見を覆すためだった。
 
 
福祉事業を行ったのも、社会の底辺にいる人を一般の生活水準に上げるためだった。
 
 
明治、大正時代、民権運動が起きた。
彼は政界でそれを訴えるのではなく、経済、社会の分野でそれを実践していった。

 
渋沢栄一のスケールの大きさと、懐の深さはそこにある。
 
 
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渋沢栄一が関係した事業は、 
渋沢栄一記念財団渋沢栄一関連会社社名変遷図
に詳しく載っています。
 
 

2011年5月23日 (月)

渋沢栄一~算盤編~

 
 
昨日の午後から雨が降り出して、急に温度が下がりました。
日中、25度以上から一気に15度くらいに下がりました。
あまりの寒さに、暖房を入れてしまいました。
 
 
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僕が尊敬する人物に渋沢榮一がいる。
彼はケールが大きな、懐の深い人物だった。
『渋沢栄一 (1) 算盤篇』
『渋沢栄一 (2) 論語篇』
  (鹿島 茂・著 文藝春秋)を読んで、改めて認識した。
 
 
 
 
渋沢栄一が明治政府の官僚として、現在の銀行法に相当する国立銀行条例や度量衡を制定した。
無から有を作る。
海外の制度を参考にしたとしても、発想力が人と異なる。
 
 
人物を見る目も鋭い。
日本の郵便制度の基礎を作った前島密は有名だが、その前島密を抜擢したのが、渋沢栄一だ。
 
 
  
退官後、彼は様々な事業を起こしている。
 
 
今でも、彼が起こした企業が数多く残っている。
みずほ銀行(第一勧業銀行)、王子製紙、サッポロビール、日本郵船、などなど。
企業だけでなく、今の東京証券取引所、東京商工会議所のもととなった団体も起こしている。
 
 
これに彼が資金援助したり、経営に関わったものを含めると、その数500社余りになる。
田園調布を作った今の東急グループの五島慶太は有名だが、そのもととなった田園都市の構想を作った人物は、渋沢栄一だ。

   
普通の起業人と違うところは、彼は事業が軌道に乗り始めると、それを後任に任せた、
彼本人は別の事業を起こす。
それを同時並行して行っている。
種を蒔いて、発芽すれば、あとは他の人に生育を任せる。
彼は新しい農産物の種を蒔く。
   
 
明治時代は、新しい国を作るため様々な事業が必要だった。
事業を起こす方法として、財閥を作ってその配下で事業を起こす方法がある。
渋沢栄一はそうはせず、事業を起こしては他の人に経営をまかせる、
新事業を起こす人に資金援助したり、相談役になったりする。
彼は常に新しい分野に挑戦してきた。
 
 
現代と明治時代とでは、経済規模も小さいし、様々な業種が未開発だった。
事業も幼稚で、成長する余裕もあったのかもしれない。
今の時代に比べて 、新しい事業を起こしやすかったのかもしれない。
それでも当時は資産もなく、基盤も脆弱だった。
経営論も確立していない。
人材もそんなに多くなかったはずだ。 
 
 
そういう環境の中で、彼は新しい事業を次々に起こした。
財閥と違って、それを自分の支配下に置かなかった。
 
 
現代でも、様々な事業を起こす経営者はいる。
それでも、自分のグループ会社とすることが多い。
それゆえに、グループ会社の利益を優先してしまう。
   
 
渋沢栄一は、そういうことに拘泥しなかった。
だから様々な業種、業態に挑戦できた。
 
 
今、そういう起業家はいるだろうか。
 
 

 

2011年3月31日 (木)

天皇皇后両陛下の被災者お見舞い~心のよりどころ~

 
 
昨日、天皇皇后両陛下が、被災者を見舞われました。
両陛下からお声をかけられた被災者は、安心されたり、和まれたりしたことと思います。
被災者の方々の気持ちが少しでも落ち着かれることを、願っています。
 
 
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人付き合いをしていると、どうしても依怙贔屓してしまう。
自分を慕ってくれる人、自分を大切に思ってくれる人を大事にしてしまう。
その一方で、自分を嫌っている人、自分と意見が違う人を避けてしまう。
 
 
政治家は中立の立場で国民の利益を考えるのが、本来の姿だろう。
現実は政治家は、自分を支持する人、自分に利益をもたらす人、声の大きい人の利益に導くような政策をしがちである。
政治家は、どうしても利害関係に左右される。
 
 
そんな中で、国民一人ひとりにあまねく、分け隔てなく接する人物がいる。
その一人が天皇だと思う。
天皇は、国民一人ひとりの平和と安寧を願っている。
天皇は、世界の平和も願っている。
日本国民が安全な生活をするためには、世界が平和でなければならない。
  
 
天皇家は、国民の税金で生活しているので、国民一人ひとりを大事にしなけらばならない立場ではある。
そうはいっても、あるいはだからこそ、利害関係によらず、国民一人ひとりを分け隔てなく愛し、慈しむことができる。
そこには身分や階級、立場、職業、性別、年齢、出生、収入などの区別がない。
打算もかけひきもない。
あたかも母親がその子供を愛し、慈しむかのように。
 
 
そこに両陛下の優しさ、温かさがあるのかもしれない。
被災者の方々も、それを感じたかもしれない。
   
 
天皇制について様々な意見がある。
そうはいっても、国民一人ひとりのことを思ってくれる人が、この世の中にどれほどいるだろうか。
 
 
天皇は、たんなる日本国の象徴ではなく、国民の心のよりどころのように思う。
 
 
その意味で、僕は天皇を敬うし、日本と日本人には必要な人物だと思う。
 
 
 
 

2010年11月13日 (土)

渡部陽一さん~戦場カメラマンの意義~

最近、戦場カメラマンの渡部陽一さんをTVでしょちゅうお目にかかる。
あのゆったりとした、語りかける口調は、魅力的だ。
饒舌で早口な出演者ばかりだと、その出演者が結局何を言いたかったのか、分からないときがある。
その中で渡部陽一さんが語りかける言葉は、その人の主張が分かり、納得する。

あのキャラクタが人を惹きつけるのか、色々なTV番組に出演されている。
このことによって、みんな戦場カメラマンに興味を持つことになる。

世界ではいたるとことでは紛争地域が起きている。
日本にいるとそのことはほとんど気がつかない。
そんななかで、渡部陽一さんがTVに出ることで、一人でも多くの人が世界に目を向けることは貴重なことだと思う。

2010年11月 5日 (金)

松本零士さん旭日小綬章受賞

松本零士さんが旭日小綬章を授与された。
おめでとうございます。

旭日章そのものの意味について、疑問がないわけではないが、松本零士さんが旭日小綬章を授与されたことは、松本零士さんのマンガが社会から認められたことだ。

松本零士さんといえば、「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」は当然好きだ。
それだけではなく、僕が好きな作品に、「男おいどん」がある。
九州から出てきたうだつのあがらない男の、日々の生活をつづった作品だ。
僕自身も学生時代、九州から出てきて、四畳半に住んでいたので、他人事には思えない。

さすがにサルマタケは生えなかったが、似たような生活だった。
ラーメンライスも、炭水化物をダブルで食うようなものだった。
登場する下宿のバーサンや中華屋のオヤジのキャラクターは、後の作品にもその顔かたちで登場してくる。
登場する女性は、松本零士さん特有の姿かたちででてくる。
後の森雪やメーテルのキャラクタだ。
もう何十年も前のことなので、ストーリはあまり覚えていない。

もうひとつ、いつも感動して読んでいた作品に戦場まんがシリーズがある。
ビッグコミックオリジナルなどにたまに掲載されていたと思う。
このシリーズはただたんに戦争マンガではなかった。
戦場に散っていく若い命。
もし戦争がなかったら、別の人生があっただろうに。
戦争の悲惨さ、むなしさを訴えていた。

かすかに覚えているのは、
戦争がなかったなら、親友となれたであろう、敵国同士の若者。
あるいは、「若い人が命を落とすことはない」と、年老いた男達が若者に替わって戦場に赴く。

松本零士さんのメカの描写は逸脱だ。
その機械的な描写の中で、登場する人間は、すべて悲哀を持っていた。
戦争の意味を考える上で、一度は読んでもらいたいマンガだ。

2010年10月31日 (日)

野沢那智さん逝去~合掌~

僕が学生時代だったころ、友達が話題にするラジオの深夜番組といえば、ニッポン放送のオールナイトニッポンだった。
僕はどちらかというと、TBSラジオのパックインミュージックが好きだった。
オールナイトニッポンが高校生や大学生向けだったが、パックインミュージックはそれより少し上の世代向けの番組だったように思う。

好きなパーソナリティの一人にキンキンがいた。
愛川欣也さんだ。
モロッコについてしょっちゅう話題にしていた。
ゲストも後に結婚するうつみ宮土理さんのほか、奈良岡朋子さんや真野響子さんも時々出ていたと思う。
声優としては、「いなかっぺ大将」のニャンコ先生や、「悟空の大冒険」の沙悟浄が好きだ。

パックインミュージックのパーソナリティとしてもう一人好きだったのが、野沢那智さんだった。
白石冬実さんと組んで、「ナッチャン」、「チャコチャン」と呼び合っていた。
白石冬実さんは、水森亜土さんとともに、アニメ声の元祖だろう。

野沢那智さんがパックインミュージックの中で話したことで、妙に覚えていることがある。

野沢那智さんは、「那智」という名前は、はじめは和歌山県にある那智の滝に由来すると思っていたそうだ。
ところが後で、本当はドイツ第三帝国の「ナチス」に由来すると知って、野沢那智さんは非常にショックを受けたと言っていた。

野沢那智さんは、アラン・ドロンやジュリアーノ・ジェンマの声優をしていた。
クールでハンサムな男優の声が多かった。
僕がもう一人好きな声優だった山田康夫さんは、ジャン・ポール・デルモントのようにどちらかというと三枚目俳優の声を担当していたが、野沢那智さんは二枚目俳優の声を担当していた。

また昭和時代のシンボルの一つが、消えたような感がある。

ご冥福をお祈り申し上げます。